2007年12月18日火曜日

ハイル タクシー運転手!

いつもヤフーのニューストピックを流し読みする。しかし、あんまり青い所をクリックしたりしないのだが、今日は目に止まった見出しが2つあった。

「M.シューマッハ、タクシー運転が捜査の対象に!」
なんでも、飛行機の出発時間に遅れそうになった、シューマッハさんが、タクシーの運転手と交代して、自ら運転したというものらしい。当然、道交法違反にはなるでしょうな。警察が捜査に乗り出しているらしい。

F1ドライバーの動体視力とスピードに対する対応力が凄まじいのは容易に想像できる。俺は動態視力は結構あると思うが、スピードに関しては、へたれだ。バイクでは80キロを超えると、ちびりそうになる。車でも120キロ以上出したことがない。押し返すような風圧とハンドルの轟きに、単純に、びびるのだ。

昔、何かの雑誌で、F1ドライバーが、「数センチの隙間があれば、抜かせる」と言っていたのを読んだ記憶があるが、尋常ではない。

公道であるから、シューマッハの運転を見かけた人はびっくりしたに違いない。シューマッハ自体は事故を起こすことはなくても、恐怖や興奮で事故を誘発される方がいるかもしれないので、警察の捜査は仕方ないのかもしれない。

俺が気に入ったのは、シューマッハの運転を見かけた、同乗はしていないタクシー運転手のコメントだ。引用する。

ドイツ・バイエルン州のコーブルク郡周辺でタクシー運転手として働いているYilmaz氏は、「私の人生の中で最高のドライブだった。それに最速だったね」と語っていた。

実にクールで粋なコメントだ。「人生で最高のドライブ」とタクシー運転手がコメント出来るのは、国民的な懐の深さであろう。正直で、的確なコメントだと思う。

日本で、上記のような事件があったら、取り上げられ方は、もっとスキャンダルなものであったと思う。
「F1ドライバー、暴走運転で駆け抜ける!」とかいったタイトルで報道され、コメントも、「信じられないです。何を考えているのでしょうか? レーサーとしての資質以前の問題です。」といった、ヒステリックなコメントになったであろうし、上記のドイツのコメントは拾われたとしても報道されないであろう。

俺は、ドイツと日本の国民性は似ていると思っていたのだが、やはり、優劣は別として、コメント時に自分の感情を素直に、自分の尺度で語れるという点では、ドイツの国民性の方が、上手だと思った。

そんな感想を持って眺めたのが、次の見出し。

「町村官房長官 「UFOは絶対いると思う」」  これも引用する。

「うーん、まあ、あのー、政府のそれは公式答弁としてはですね、UFOの存在は確認していない。だから、対策なども特段検討していないという極めて紋切り型の答弁しかないだろうと思いますけれども、あのー、私は個人的には、こういうものは絶対いると思っておりまして。個人的な、個人的な意見でありまして、政府答弁は政府答弁であります。そうじゃないと、いろんなところにあるね、ナスカ(の地上絵)のああいう、説明できないでしょ。と、思っているんですけれどもね。」

薬害肝炎や年金問題についての質問の後の、このコメントだ。

個人的な感想は、「え~やん!」という好意的なものだ。立場をわきまえながらも、個人的な意見を述べるあたりは、俺は長官の人柄の良さを感じた。

町村氏に対しては、「目立ちたがり屋」、「腰ぎんちゃく」、「無責任」といった悪評が多いが、俺はそうは思わない。年金なんかは、野党が協力しないだけで、超党派で幅広く議論していくといったスタンスを、しっかりと答弁していて、なかなかだと思った。

政治家や官僚に対する批判をするのは簡単だが、批判するなら、政治家や官僚になればよい。政治家は、世襲はあるにしても、そういう星に生まれたエイリアンであり、勉強が出来た人間であり、庶民的感覚において、何か欠落する部分が多分にあるのは止むを得ないと思う。

国民からの税金を血税として捉えているような、庶民感覚を持った政治家や官僚がいたとしても、この世界で発言権を占めることが出来ないのが、このモンスターな世界だ。

庶民感情をわからない以上、ステロタイプな答弁で何が悪い!というのが、庶民の典型の俺から見ての、率直な感想だ。彼らが国民の生活を支えているなんて、甘えちゃいけない。見つかったら裁きにかけられるだけの、表向きの見せしめ良心は、政治家も持っているのだから、それで満足しないといけないのではないかと思う。期待しすぎだよ。

政治的無関心は良くない。彼らを監視し、少しでも良くなるように意見を上げていくのが庶民の役目であろう。でもね、庶民の意見が吸い上げられて、それが大きな力になる時、それは暴動になるのだよ。
暴動を経て、勝ち得た自由と平和が、やがてはまた、元に戻る過程を、歴史的に見てきた我らではないか?何のために歴史を学ぶのかね? 

あきらめとは違う。前向きな割り切りだ。悪い政治家が悪いことをしていても、暴動が起きる時よりは、死者は少なく、貧困にあえぐ人も少ないのが実情だ。

革命が起きて、平和が到来しても、それは恒久的なものにはならない。英雄は常に更新される。英雄の谷間で犬死にする人を踏み台にして英雄が生まれる。ならば、非難轟々の政治家ほど、可愛い存在ではないか?と思う。

体調不良を理由に総理を辞した安倍さん、里帰りのシーンを撮った週刊誌が批判していましたが、実に人間らしいと思う。

官房長官がUFOについての私的な意見を述べる。爽快に思う。人間らしさがある限り、国は大多数の幸福の元に回っていく。大多数にあぶれた人側の意見は、俺は知らない。機会は均等にある。どの立場に立つかを選ぶ権利は均等にあって、それをどんな原因であろうと選択、時には運命的な選択であっても、経てきた結果が今であるならば、せめて、毎日のお上のニュースは明るいものであってほしいと思う。

偶発的な天災で、家族を失った人が、天を呪うことを、長期的に肯定できるだろうか? ならば、どんな因果でも、自分の現況を政府に怒ることが出来るだろうか?

薬害問題の当事者が政府を呪い、彼らに憎しみを抱くのはわかる。しかし、当事者でないものが全てをひっくるめて、当事者感情に移情して、政治家を叩くことが、正義の行動とは思わない。

話しが逸れた。俺も移情している。極論であるかもしれない。

俺が言いたいのは、耳に心地よいことばかりを垂れ流す正義の味方こそ、無責任な人であり、彼らが到達する最終地点は、桃源郷だ。目には見えない。UFOと同じだ。見えない保証だ。UFOを信じるより難しい。

同じ見えないものならば、大義名分を捨てたコメントを吐ける人を、信じたいと思う。

あくまで、当事者としての自分の立場からだけ、物事に喜怒哀楽したらいいのだと思う。長期的なビジョンや、さかしらな頭脳は、生きている喜びを減らすだけだ。目の前の喜びに反応し、苦難が来たら、それを、しかと受け止めようと思う。(と言っても、その立場になったら、俺は世の中を呪うだろうが・・)

シューマッハの運転を見て、「人生で最高のドライブ」と、自分の立場でコメントできた、ジャーマン親父を見習おう。Heil Taxitreiber 

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