2008年1月2日水曜日

氷見街道を行く

毎年、年末年始のどちらかに訪れる日帰り温泉が、我が住む町の隣の氷見市にある。俺が富山に来て、最初に入った温泉であり、富山訪問をした友達を数多く誘ってきた温泉だ。

富山に来て13年、県内の日帰り温泉は、ほぼ行きつくしたと思う。ここよりも良い所はたくさんあるのだが、年末年始には、なぜか、ここを訪ねたくなる。カタカナ表記のキャバレーみたいな高級温泉宿の直営の温泉だ。500円也。

ここの温泉は、屋根と窓で囲われてはいるものの、露天風の石の浴槽があるだけで、洗い場も5人分、休憩所もソファーとマッサージチェアがあるだけで、昨今流行の大型天然温泉施設とは、大きく異なっている。いで湯といった佇まいで、実に良い。キャバレー風味の旅館名とのミスマッチがよろしい。

源泉が60度近いこともあり、水で薄めても、かなり熱めの湯である。色は、ヘラブナが住んでいそうな湖沼色。無色透明のお湯にはない、生臭さがあり、俺が温泉に求める全ての香りがここにはある。
薄い緑風味の色にはわけがある。ヘラブナは実は住めそうにない。黒鯛が住めそうな磯の香りがそこにはある。塩分が強烈なのだ。露天からは厳冬の富山湾が眺望出来る。

俺は、ここの湯には50回ぐらいは浸かっている。泉温が熱いので、夏場は敬遠するが、全く入らない年はない。泉質、佇まいも良いが、ここを定期的に訪れたくなる理由は、別にある。

俺が富山に来て、2年ぐらい経った頃、俺はこの温泉によく出入りしていた。毎週のように来ていた時があった。その時に、腕に刺青を入れた御仁を数回見かけた。彼の独特の佇まい、穏かさと狂気と疲労を含有した雰囲気に俺は圧倒されていた。ちょうど、俺が当時住んでいたアパートは、パチンコ屋の隣にあったのだが、そこでも数回見かけたことがある。

別に、彼に会いたくて行っていたわけではない。彼以外に刺青を入れた御仁も数人見たし、俺は刺青フェチではない。猟師町ならではの、家紋的刺青を入れた人もいる。色んな人種の人間が、湯船の中では寡黙に、自分の空間の中で、穏かに汗をかいている。窓枠から入り込む隙間風、窓から見える眺望、全ての映像が、俺には浪漫に繋がる匂いを感じさせた。

この年の夏ごろ、日本最大の組織、Y組のナンバー2が、震災のあった土地で銃殺された。後に刊行された狙撃犯の獄中手記によると、彼は、我が住む町に潜伏し、この温泉にもよく行ってたとあった。昼間はパチンコをしていたとも書いてあった。おまけに刺青に関するくだりもあった。

俺の脳裏に焼きついていた彼と、上記の彼が同一かはしらないが、同時期であったことは確かだ。
警察からも893からも終われる身となった犯人が、つかの間の平穏を求めた土地、そして、そのいで湯・・・。湯煙でかすんだ中で見た虎か龍かの刺青。年始に、熱い湯に浸りながら、色々と考えた。

氷見は、全国的なブランドとなりつつあるブリで有名なところだ。町全体に厳冬の海の香りが内包され、演歌が似合う町だ。定置網にかかったブリは「氷見ぶり」という名で築地などに出荷される。地元にはあまり出回らず、高級魚は都会で消費される。

「氷見ぶり」とはいうけれど、氷見沖でだけ取られたものではない気がする。どっか近県の海で取れたものでも、ブリは氷見に下ろすとブランドになる。「氷見ぶり」のフリをしているブリもいるかもしれない。カタカナがひらがな表記に変わると、そこにはブランドのシールが貼られる。大海を泳ぐ魚に、どこ産もくそもあったものではない気がするが、 日本海の北陸近辺の潮流と、ブリの回遊周期が、彼らの成長度合いとリンクして、1番美味い時期に水揚げされるのが、氷見のぶりだ。美味だ。

越中氷見方言の筆頭に、「きときと」という言葉がある。「新鮮な」といったニュアンスのある言葉で、氷見地方に限らず、越中でもっとも認知されている方言だと思う。ブリに冠する用法が多い。

狙撃犯の彼は、「きときと」であった幼少時代を回顧しながら、置かれている身のうえを考え、長くは続かない平穏のカウントダウンの中、この地での湯浴みに刹那の安らぎを覚えたのかもしれない。氷にはなりきれなかった心を見つめ、氷見の海上に、浮遊する自由なブリの幻想を描いていたのかもしれない。水揚げされる日は、すぐに来て、彼は今獄中で悲身を全うしているであろう。

俺は新年になると、「ぎとぎと」した体を清め、「きときと」でありたいと願う気持ちを抱き、この地の湯を訪れる。湯船にいる人たちの中にある、いくつもの人生。鳥羽で山川な香りをそこに嗅ぎながら、ラジオから流れる「厳冬富山湾」に耳をこらす。氷のような風が肌身を突き刺し、火照った体を冷やしてくれる。磯の香りを嗅ぎながら、湯に浸り、氷見街道をゆっくり帰途につく。

「きときと」と「ぎとぎと」、清音と濁音は紙一重だ。海辺の湾道を回遊しながら、無縁に思える人の人生に何かを感じてみるのもたまにはいいだろう。清濁併せのむのではなく、濁に対しては傍観者でいたい。

「潮の香で、ぎとぎとなる身 流しけり 他海のぶり見て 我がふり治す」(「まえけん全集」第5巻 「清音のふりするぶりっ子」より引用)

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