2008年1月18日金曜日

微妙な言語教育

最近、中学生同士の会話を聞いていたら、「け~わい!(爆)」という表現が、多々耳に付く。「びみょ~う」に続く頻度だ。俺は、まったく知らない。ただ、ドキッとしたのだ。

「K・Y」は、俺の旧姓のイニシャルだ。子供達がこのセリフを言った後、笑いが起こるのだが、新種の嘲りのような香りがする。俺の旧姓イニシャルを嘲りに使われるのは穏かでない。

俺は、彼らのこの言葉の使用場面を、少し気をつけて観察してみた。すると、突拍子もない質問を授業中にし出す生徒の発言の後に使われる傾向があることに気がついた。

今日、ある生徒が、別生徒に嘲る口調で、「お前、け~わいか?」と言っているのを耳にして、「何がけ~わいじや! 山田太郎君(仮名)はT・Y(仮名イニシャル)じゃ! け~わいは、俺がドナドナする前のイニシャルじゃ!。しょうもないこと言うな!」と養子をカミングアウトした。(別に隠していたわけではないのだが・・・)

しばしの沈黙の後、(概して最近の子供は反応が遅い!)次から次へと質問が飛んだ。「せんせ~い、売られたんけ?? 子牛け~?! ある晴れた日に来たんけ~?」と、実に楽しそうに質問してくる。

数分の雑談モード後、俺は学習モードに戻すため、「は~い、は~いそこまで~、大人を侮辱しおって~、お前ら全員、け~わいじゃ! 勉強に集中せんかい!」と言うと、生徒は、「せんせ~い、け~わい知ってるんや?」と、納得の顔でモードを切り替えてくれた。

どうやら、俺の知ったかぶりの「け~わい」使いは、用法としては間違っていなかったようだ。
さりげなく、誘導尋問で「け~わい」の意味を生徒に聞きだすと、どうやら、「空気よめよ!」といったツッコミの略語らしいことが判明した。きっとテレビか何かでの若者言葉だと思う。

答えを聞いて、納得。俺の使い方は、たしかに間違いではなかった。「授業中にざわざわしおって! おっさんが怒りかける空気をよめ!」という風に捉えれば、適切な使い方である。

思うに、言葉というのは生き物である。次々新しい言葉、例えそれが略語や暗号といったレベルであっても、世間に認知される言音は、生まれてくる。若者言葉自体に関して、俺は否定しない。彼らの感性でなければ生まれない語感もたくさんあるし、俺は大人もそれらの言葉に耳を傾けるべきであると思う。国語辞典で定義されているものだけが、言語ではない。言語に正しいも糞もない。

言語というのは、たとえそれが略語であっても、使われる場面と話しての表情を見ていれば、だいたいのニュアンスは伝わるものである。これが正しい言語の学び方だな~と、今日、わが身の言語認識過程を通して、再確認した。

感性だけで、言語レベルを上げられるほど、言語の海原は狭くはないが、ひとつひとつを体感して言語を認識する時、それは、暗記対象ではなく、自然に頭に入る言語となる。当然、交わる集団の言語レベルによって、使用される言葉のジャンルが違ってくる。

麻呂に接していれば麻呂語、業界人接していれば、業界語といった、集団での言語ジャンルを体得していくが、その過程に暗記しようといった作為は発生しない。自分が夢中で付き合う集団での言語は、沁みるように体内に入ってくる。

狼に育てられた人間が、狼とコミュニケーションを取れるのは、その集団にしかない、音のニュアンスの違いを、種々の場面を通して体得していくからだ。どんな集団でも交わる集団色に染められて、そこで意思疎通を図ることに不自由しないのが、我らに備わっている機能だ。

中学・高校での言語教育を鑑みてみて、彼らは、日常使う言音ジャンルと、あまりにかけ離れた音に包まれすぎている。だから、今の子供達の言語力低下が叫ばれるのだ。家庭での会話などの日常の言音ジャンルの方が、昔からの教材レベルの言音から離れてしまったというべきかもしれない。

だからといって、教材の言語レベルを下げるわけにはいかない。大人の俺が、若者言葉を認識出来るのは、基礎となる言語が体内に入っているからだ。子供達は、これから自分が選ぶ集団の、どんな言語レベルにも対応できるだけの、最低限の音に対する耳と、それが使われる場面を通して、語彙を体内に育まなくてはならない。そのために言語教育がある。

子供達は、語彙を知識として学ぶ一方で、その言葉が使われる場面を体感するだけのニュアンス感知能力も育まなくてはならない。そういう意味では、若者言葉は否定できないと思う。言葉の意味はわからなくても、使われる局面を何度も体感していけば、それに対する適切な使用場面というものは、体感できるからだ。だからこそ、若者言葉になりうる、素晴らしき日本語の言葉を、大人が選りすぐってあげなければならない。

ファジーな言語認識しかできない子供に、大人が、「びみょ~う」とか言ってはいけない。「微妙」は、最も繊細な言葉だ。言語表現不可能なニュアンスを暫定的に認める言葉だ。こんな言葉を安易に使うことは、大人たちが、言語定義する努力を怠っている証拠だと思うのだ。言語力の乏しい子供だけに許された言葉だが、彼ら自体にも使う場面設定を無くせるようにしてあげるべきだと思う。

俺は、生徒の間で、美しき古語を流行らせる努力をしている。人に相槌を打つときには、首を軽く上下に振りながら、「げに」と頷くように指導している。楽しそうに使っている。俺が、「わかった?」と聞くと、彼らは「げに」と無邪気に頷く。かわいい。

古語で、「まったく」という意味だが、本来の正しい用法とは文法的にもニュアンス的にも若干違う。しかし、日本語の持つ語感の良さを体感してもらい、それから、「げに」が使われている古文をたくさん読ませ、適切な認識を養うのだ。突破口としての音から、正しい用法まで、一連の流れが提供されるなら、彼らの吸収力は生きてくると思う。

古語を流行らせる努力は、最近実を結びつつあり、「今度のテスト、いと点数良かった。」とか、「せんせ~い、そのネクタイ、げに、つきづきしやん?」とか、ルー大柴の古典風の芸風が見られるようになった。本当にこれでいいのか?とは思うのだが、言語に対する興味を体感してくれたら、それでいいと、現状では思っている。

マニュアル的な公的教育に対して、俺は「け~わい」かもしれないが、場面に応じた使い方を出来て、相手にニュアンスを伝える言語力を育むことが出来るなら、それが最高の言語教育だと思っている。
何よりもまず、言葉の世界が楽しくて、表記と音と両方楽しめて、次々知りたくなる気持ちを持ってもらえることが、1番大切な気がしている。
しかし、合否の成果は何とかなるが、長期的に彼らにとって良いことかどうかと自問自答するとどうだろう???もっと、フォーマルなやり方で指導すべきだろうか????

現時点での俺の答えは、「微妙」だ。俺も言語をしっかり学ぼう!

4 件のコメント:

サイトウユウジ さんのコメント...

まえけんさんの言語教育話、非常に興味深いです。

僕は言語の変遷を肯定・賛成していて、そのダイナミズムを「正しい言葉」などといういい加減な発想・無駄な硬直的思考で否定するのは気味が悪いと思っていたのですが、まえけんさんが絶妙なバランス感覚で止揚されているのを読むにつけ、まえけんさん的折衷説で思考するのが案外正しい方向なのかもと感心した次第です。

サイトウユウジ さんのコメント...

まえけんさんの言語教育話、非常に興味深いです。

僕は言語の変遷を肯定・賛成していて、そのダイナミズムを「正しい言葉」などといういい加減な発想・無駄な硬直的思考で否定するのは気味が悪いと思っていたのですが、まえけんさんが絶妙なバランス感覚で止揚されているのを読むにつけ、まえけんさん的折衷説で思考するのが案外正しい方向なのかもと感心した次第です。

オオタ(アルカリムッシュ) さんのコメント...

どちらかというと、合否以上に長期的な面で成果をあげそうなアプローチかなと思いますな。

言語は思考を司る道具にも壁にもなり得るから、子供に向けた教育における役割は、計り知れんほど大きいものでしょうね。

円滑なコミュニケーション能力の有無は、その人の社会性や学習能力をも左右してしまうしね。
それをうまく育むツールの中枢に言葉が位置してるんだと思いますわ。責任重大やのう(笑)

管理猿まえけん さんのコメント...

>サイトウユウジさん
ほんと、どれが正しき方法かはわからなけいど、少なくとも新語を否定は出来ませんよね。貴殿のように、硬質な言葉に日々触れている人が、柔軟な言語観を持っていることに、日本の司法界の明るさを見出します。
それにしても、貴サイトの写真はすごい!俺の壁紙増える一方や(笑)


>オオタさん
そうやねん、責任重大ですわ(笑)。貴殿のおっしゃるとおり、言語力が社会的や学習能力の殆どを左右している気がします。塾は、どちらかというと短期的成果を求められるから、保護者にこちらの意図をちゃんと説明せなあかんから、こちらも言語力磨くことに必死ですわ。色々アドバイスください。