2008年1月24日木曜日

しぶい酒屋

町のいろんな店の変遷を見るのが好きである。俺が富山に移住してから、早13年であるが、たった10年スパンでも、我が住む町は、随分と変わった。渋滞で有名な幹線道路の交差点は高架に変わり、生産調整で機能しなくなった田んぼは、住宅地へと変化し、全国規模の大型チェーンが国道沿いにはひしめいている。

国道と名のつく道路沿いの景観は、今や、全国どこにいっても同じような気がする。市として区分されているところの国道沿いには、外食産業、スーパー、衣料店、眼鏡屋、電気店と、大手が、ほぼ出揃っている。コンビニも乱立し、どこでもドアで、瞬間移動したところで、区別はつかないだろう。

町の店の変遷を見ていると面白い。コンビニが退去した跡地には、歯医者か居酒屋かラーメン屋が出来る。小規模なパチンコ屋の後には、大手チェーンの古本屋が入る。

いわゆる、居抜き物件といわれる、1度商売がなされていたところの、廃業後に、新種の商売が立ち上がる過程は、見ていて興味がある。前に、だめだったところであるから、それなりに物件としての商品価値は低く、安価で契約できるのであろう。

我が住む町での場合だが、この居抜き物件、見事な確率で、出直し組みもまた閉店の運命を辿っている。確かに、立地が現代の車社会では合わない土地もあるのだが、駐車場がしっかりとあり、それなりに魅力的な土地でも、なぜか商売が続かない。地の祟りか????

その一方で、「よく経営がなりたっているよな?」と思う、しぶい佇まいの店は、今でも看板をあげている。商売は、奥深いものだと、他人事ながら思う。稼業のある家に生まれたかったとも思う。

俺は極力、昔からあった佇まいの店を愛用するようにしている。値段的には、乱立する大手にはかなわず、多少は割高感はあるのだが、値段の感覚は、比較対象を加味するかしないかだけの問題である。地域に密着した店が、小規模ながら長年、しっかりと商売を続けてきておられることを素晴らしいと思う。

なかでも、果物や野菜をザルにいれて、手書きの値札をかぶせているような店のご主人を見るのが好きだ。店内にはお菓子もあれば、缶詰もある。醤油など調味料あれば、日用雑貨の一部もある。昔のコンビニ的な役目を果たした、屋号がある店だ。賞味期限が切れているものも多いが、そんなものを気にしない胃袋と、おおらかさが、ご主人にも客人にもある。すばらしい!

こういったタイプの店のご主人は、例外なく高齢である。もう、年金をもらえて隠居することも出来るであろうに、毎日彼らは市場に仕入れに出かけ、決して多くはないお客様(地元の、車と縁がない高齢者)のために、店を今日も開けておられる。彼らが店を切り盛りし、活気溢れて動く姿を見るときに、なんともいえない尊敬の念が起こってくる。活気は、客の多さが作り出すものではない。ご主人の人となりが作り出すものである。俺は、出来るだけ、こういう店前で路駐し、飲み物1つでも買うようにしている。
彼らの姿を見ることが、なぜか、自分にとって真の活力となる。清いのだ。しぶいのだ。

こういうタイプの老舗の店のご主人は、子供さんがおられても、まず、時勢を考えて後継をとらない。きっと、こういうご主人が切り盛りする、いきな店は、あと10年もすれば、姿を消すのであろう。画一化される町並みへの変遷の目撃者として、しかと、この目を開けて見ていきたい。

東京、大阪、京都、名古屋といった都会には、老舗がしっかりと、昔の佇まいを継承しながらも、今風にマイナーチェンジをするだけの土壌と文化があり、これは今後も変わらないと思う。しかし、田舎ほど、この昔からの町の店の消滅速度はひどい。俺は、彼ら先人の商売人気質の素晴らしさを、しっかり味わいたいと思うのだ。

昔の商売人を肯定したものの、「これはいただけない」という、先人もいる。

俺の近くに、昔ながらの酒屋があるのだが、ここのご主人は強烈だ。俺は初めて行ったときに衝撃を受け、その衝撃を時々味わいたくていくようにしている。

こやつ、引き戸を俺が開けた瞬間に、「はい、何しまひょ?」と聞いてきやがる。「焦る気持ちはわかる。しかし、せめて、せめて、冷蔵庫までたどり着かせろ!」と俺は心で毒づく。

今日、3ヶ月ぶりに行ったのだが、やはり、やつは帳場で俺を凝視していた。俺が引き戸に触れるなり、「らっしゃい! 何しまひょ!」 が飛んできた。 変わらぬ商売哲学も彼らの素晴らしいところである。
俺は、散々じらして、何も買わずに出てやろうか?という悪戯心もわいたのだが、ビールとナッツを買ってやった。嬉しそうにご主人は、レジを叩き、数少ないつり銭から、10円玉1枚を俺に渡した。ギザジュウであった。ギザしぶい。


俺が好きなご主人は、人生の先達である。人の良さがにじみ出ている一方で、一癖も二癖もあるご主人もおられる。好き嫌いはあれど、彼らのしぶさは同一だ。しぶさが、時流に合わない場合もあるが・・・。

紙芝居屋、アイスクリン屋、豆腐屋は、今頃になって、古き良き時代の証として写真集で、時に思い出したように刊行される。上記のご主人達も、俺が50代になる頃に、写真の中のひとコマとして、ノスタルジアのネタにされるのであろう。

未来に、写真集で過去を懐古するくらいなら、俺は、今この目でしっかり焼きつけ、彼らのしぶさを俺の体内に吸収したいと思う。

「何しまひょ!」 彼らのせっかちさだけを今に伝える伝承者の俺であるが、彼らの根底にある気質をしっかり学び、これからも町を概観したいと思う。

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