2008年1月25日金曜日

小石のブログ

嫁も、会社で仕事の合間に、このブログを見ているみたいだ。時々、批評をしてくれる。

嫁は、俺の毒舌で、世間に噛み付いたタイプのものや、深層心理を抉り出したような重いものではなく、軽くて、かわいいタッチのものが好きみたいだ。重い文章を書いた時にはあまり反応しない。

多くの方々からも、「よくもま~、こんだけの分量を毎日ペースで書くね~。」と、お褒めやあきれた感想に近いお言葉もいただく。俺にしては、毎日、長くてせいぜい20分ぐらいのことだから、今は、完全なる習慣になってしまっているので、分量に対する驚きはないのだが、毎日書くことには意味があるような気がしている。

最初に、このブログを書き始めたきっかけは、チープの掲示板がスパムに荒らされて、外国語の波をかきわけないと、日本語にたどり着けない有様だったことから、どこかに、連絡掲示板みたいなものを移行しようというものだった。

掲示板の域を離れ、今や、完全なる俺の偉そうな精神状態の吐露の場だ。どういう変遷だ・・・。

ブログという空間は不思議だ。今でも、この空間で文章を書いていることに違和感を感じることはある。人目にさらされることを前提としている場合、文章としての体裁は、私的なだけではなく、ある程度パッケージされた完結型を必要とする。情報発信をする気もなければ、ディベートを欲しているわけでもないが、センズリ日記にならないように、少しは意識している。

だからといって、自分にとって、書くことにたいする必要性がない、外部の目だけを意識した文章であるならば、私的にノートに綴ればよい。公開する必要がない。

何で俺は書いているのだろう? といった自問自答をしながら、書いてきた、この数ヶ月である。今でも答えはない。

ただ、毎日書いていて思うことがある。毎日、「今日は何を書こうかな?」というネタを考えないで、すぐに書き出せることに、一種の安心を覚えているのだ。これがある限り、何とか俺の精神は動いているな、と安心するのだ。

この安心が欲しくて、無意識に書くネタを体内に宿す習慣が出来ただけかもしれない。毎日書くたびに、安心し、読み返さなくてもよいし、書いたことに対しての何かを求めているわけでもない。ただ、今日も色んなことを考えるだけのことがあって、省みたり、顧みたりすることが出来た瞬間が、俺にとって、貴重な時間に思えるようになった。

劇的なことは、なかなかない毎日、訪れてはくれない。決まった通勤道、決まった箱庭内での彷徨、そこに、興奮のツボばかりを見出していたのでは、毎日がたまったものではない。だからといって、そこに何も見えなくなって、1日を終えたときに、その日の色がないことを気付く瞬間が来るのではないかということに、俺はずっと恐れを感じていた。

一時期、そういう時期があった。昨日と今日と明日の区別がなくて、流れの点にもならないような日々があった。俺の目は曇り、何を見ても刺激を感じず、何を見ても無機質に捉えていた。そして、それに対する怯えがすごく高まり、俺は、「鏡」という曲で、その心情を昇華した。書いた後は、安心したのだが、やはり、衰えゆく感受性に対する恐怖は常にあった。

この暑苦しい心境は、断片的に、このブログで触れては、自分の中で格闘していたのだが、ブログを書くことが習慣化してきてからだろうか、俺の中で、また、以前のような、毎日の日々に色彩を抱く感覚が蘇ってきたような気がしてきた。 

これが嬉しいのだ。単調で単調でつまらないように思える毎日に、昨日とも明日とも違った、膨大な分母の中の分子として、日々が存在感を際立たせる時、俺は、呼吸していることに喜びを感じる。
そして、精神的な回復をもたらす何かに、このブログが役立ってくれたような気がする。

まだ、たかだか、数ヶ月。これから毎日どのくらいの文章を書いていくのかは、全然わからない。ただ、はっきり言える事は、書きたいことがなく、毎日のブログに推敲を重ねないと文章が書けなくなる日々が来たならば、そのとき、俺はブログをやめ、推敲を重ねた文章を万年筆で原稿用紙にしたため、こっそり保管するか、内容次第でアナログ媒体で発表するだろう。

日々、リアルタイムで公開するのは、そこに、毎日の色合いがあるからだ。日々の色彩への感謝の報告を電波に乗せているだけだ。普遍的なテーマならば、推敲に推敲を重ねて、自己対峙し、発狂するがよい。俺は、愛おしい毎日の色に感謝の念を抱き、それを形にすることで、救われる何かをブログに求めている。

毎日、その日に感じた色彩を文章にするからといって、振り返って、ブログに何かを感じたりはしない。一期一会の言葉との対峙だ。感情を上手く言葉で表現できるようになれば、そのレベルに応じて、また新しい、素敵な言葉が降臨してくれると思う。感情レベルの高揚と、新しい言葉との出会いの場はリンクしている。この先、どんな言葉とめぐり合えて、日々にどんな彩りを加えてくれるかを、個人的に楽しみにしている。

ブログを書くようになってから、曲の詞に対する言語感覚も、少し変わってきた気がする。昔なら表現出来なかった心情を、自己完結ではあるが、形に出来るようになってきた気がする。書き続けることで得られるものがあるならば、書ける幸せを感じて書くのみだ。

浜辺の小石は、変化のないように見える毎日を過ごしているが、海に面している分、漣に洗われる。俺も単調な日々において、せめて、心持だけは、電脳の海原で、言葉に対峙していたいと思う。

明日は、福野町でライブをする。漣に現れた小石の俺は、言葉と音に対峙する。

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