2008年1月28日月曜日

移動について考える

我が家から数百メートルのところに、一級河川があるのだが、いつも、その堤防の道を数キロ車を走らせながら通勤する。気持ちの良い道である。

この河川のあるところに、数年前からボーリング工事があり、不穏な雰囲気があったのだが、徐々に工事が本格化し、昨年から、完全なる橋桁が姿を現した。道路でないのは、一目瞭然の少し細めの橋桁だ。

北陸新幹線のものらしい。あと10年以上経ったら開通するみたいだが、我が家のすぐ近くに新幹線が通る姿が、どうも想像できない。

今、富山から東京へは、越後湯沢で新幹線に乗り継ぐパターンで3時間半くらいが最短だったと思う。それが、北陸新幹線が全面開通すると、最短2時間30分になるらしい。それをすごく重大事のように謳っている。

謳われても響かない。たった1時間でっせ??? そんなに1時間の移動の差を、人々は求めているのかね? 正直わからない。

富山から東京へのアクセスは、JR、高速バス、飛行機と3種類用意されており、もちろん最短は飛行機だ。1時間を切手羽田に着く。ビジネスで忙しい方で、それなりに席が埋まっているみたいだ。

しかし、飛行機にしたところで、飛行時間は短いが、チェックインを加味したら、そして、羽田から中心部に出るまでの時間を考えると、そんなに早いという感覚はない。

俺は飛行機で空を飛ぶということが、すごく楽しいので、何度か移動に飛行機を利用した。今でも金があれば、飛びたい気持ちでいっぱいだ。でも、そこに目的地までの時間を加味して選択する発想はない。

電車での移動にしてもだ、3時間半が1時間短縮されたからといって、そこに便利さを見出したり、その時間に魅力を感じて、新幹線を選択する気持ちには、まず、なれないだろうな?と思う。むしろ、1時間の短縮にデメリットを感じる部分の方が多い。

俺は、富山、大阪間でも、1番遅いJRを選択することが多い。停車駅は多ければ多いほど良い。
3時間半くらいかかる、電車移動を、1番快適に思う。

電車に乗り、最初の20分は心の興奮を抑える時間、そして、その後、車窓からの眺めに思いをはせる時間が1時間、そして、その後読書を1時間ほどすれば、適度に眠たくなってくる。なんともいえない揺れと音に包まれて、うとうとする時間の気持ちよさといったら、家でのひらすまとは、また違った幸せがある。1時間弱、うとうとする間にも、列車は駅に停車する。その度に、意識があるかないかわからない頭で旅情を感じる。そして、目が覚めたら、目的地近辺の光景が車窓に広がる。美しき移動だ。

これが、1時間短縮されて2時間半になると、至福のひらすまが、行程から削除される。早く着くかもしれないが、どちらが幸せかといったら、前者だろうと思うのだ。

俺は、移動手段で1番好きなのは、夜行列車だ。2番目が夜行バスだ。そして、飛行機が続き、最後にJRの特急、新幹線が続く。

夜行列車や、夜行バスは、夜の21時代から22時代に富山を出発し、在来線の始発も走らぬ朝方に、お江戸に入る。都会のど真ん中で、明け方に降ろされた時の、迷子感といったら、それはそれは素晴らしい。グダグダになったアッパ~オヤジの残党と、クタクタ感あふれるダウナーオヤジの精鋭との対比が、大都会をバックになされる。詩情をかきたてられる。

睡眠といった観点からは、確かに問題はあるが、熟睡できなかった疲労感が、旅情を余計にかきたてる。チープの下北沢「屋根裏」ライブの時には、この行程を利用した。疲れきった体で、眠らない町を彷徨し、眠らないでリハ、ライブに臨む。今でも、無性に、この行程を欲する時がある。

これが、JRの越後湯沢経由の新幹線乗継だと、全く移動の趣はない。特に新幹線の2階建て車両の1階に当たっ時は、俺は帰りたくなる。駅のホームの下側に目線が来る、パンチラアングルすれすれの様な窓から、1時間以上の時間をねずみ色と黒色の映像だけが垂れ流される。苦痛で苦痛で仕方がない。

移動に旅情を感じたい俺にしてみれば、移動の時間にも楽しみを見出したいのであるが、多くの方々は、俺みたいに暇人ではないのであろう。1時間の短縮が国家プロジェクトとしてなされるのであるから、個人的な感覚のずれを感じてしまう。

色んな移動形態があってよいのだ。だから、北陸新幹線も否定はしない。ただ、短時間移動が可能なものが出来た暁には、旅情をくすぐる路線が、減るか、なくなるのではないか?という危惧があるのだ。

昭和の新幹線開通は、戦後復興の夢を乗せた。そして、その夢はずっと引き継がれ、今も、時間短縮に夢が冠されている。でも、時間の短縮が、かえって、夢を育む素地をなくしていると考える、アナクロな人間がいることも鑑みて、せめて、貴重な路線は残してほしいと思う。

列車移動の緩やかな時間の中でのソウル描写が、多くの小説にはある。これも、移動が早くなったら、形態は変わるのだろう。夏目の上京感覚も、松本の時刻のトリックも、西村の密室も、時間の感覚が変わると、パッケージするだけの詩情を失うだろう。

移動の1時間短縮に価値を見出す鋭敏さより、1時間に情を込められる愚鈍さを選べる機会が、あり続けることを願っている。

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