2008年1月20日日曜日

錆びだらけの望み

今日は朝から、推薦入試の面接練習やら、補習やら、受験対策やらで、飯を食う間もないほどの時間を過ごし、18時30分より、前の職場の塾の同僚の新年会に参加した。

昨年末に忘年会で会っているので、そんなに久しぶりな感覚はまったくないのだが、楽しく時間は過ぎた。そして、日付をまたがずに帰宅。品行方正である。

夕方以降の飲み会で、日付をまたがずに帰宅することは、俺はこれで3回目だ。全て昨年からのカウントだ。これが大人の飲み会というものであろうか。不満はない。むしろ、早く帰ってこれたことに対して、爽やかさも感じたりした。だが、これでいいのであろうか?

飲み会は楽しく、それなりに炸裂もした。酒量もあった。しかし、不思議と2件目に繰り出そうとする気概はなかった。これは俺の中で画期的な変化だ。

情けない話しだが、明日以降の仕事のことや、昨日から今日にかけての睡眠不足が、飲んでいる最中に意識にのぼった。おかしい。

もう、10年ほど前から、一次会だけに参加して、早々に帰路につく、大人をたくさん見てきたのだが、俺は、彼らの心境を意識することもなかった。ただ、俺は、「夜はこれからじゃ!」という意識で、飲み会メンツの最後の最後まで付き合うことが常であった。つきあっているという意識よりは、むしろ、自分が電池が切れるまで、とことんいきたいという気概があった。

それが、昨年の飲み会くらいから、一次会である程度満足した時に、次の日のスケジュールが頭に浮かび、守りに入ろうとする気概が生まれた。

当たり前である。普通の俺の同世代の人は、10年前にこうした選択をとっていたはずだ。今までの俺の行動が、同世代の常識と軌を逸していたのだ。俺も大人になったもんだ。

1度した失敗や、苦しみを次に生かすことによって、人は日々成長していく。だから、二日酔いの苦しみを経験した人は、残り酒を考慮して、酒量を調整し、日々のスケジュールを鑑みて友人との行事を選択する。これは賢い。全て、若い時分の経験が今に生かされているのである。

俺は、酒にまつわる失敗や、酒量による翌日の苦しみをたくさん経験している。どのくらい飲めば次の日に苦しくなるかは、完璧に認知している。しかし、酒を飲むことに限らず、次の日のスケジュールといったものを加味できない、その場限りの情熱に燃える癖があり、それは昨年まで続いた。

今じゃ、酒の場での失言も減り、人に噛み付くことも少なくなった。これが大人の飲み方だ!肯定されるべきことである。しかし、これで良いと思う反面、一抹の寂しさも感じる。

20代の子達と飲みにいくならいざ知らず、同世代以上の方々と飲みに行く時、そこにオールナイトの気概はない。それが当たり前だ。わかってはいるものの、俺の根底にある心情が、何か訴えている、疼きを感じずにはいれない。情熱の温度差を感じずにはおれないのだ。

年をとるということは、色んな面でニュートラルになることだ。種々の苦い経験を経てきたならば、過去の失敗を糧にして、エネルギーを消費しない、快適な日々を欲するようになる。この、当たり前の過程が俺には、違和感があるのだ。加齢の認知が、こういった形態でなされるのは複雑だ。

学習能力が高い方々ばかりの中で、1人だけ、ぽつんと残された感じというか、酔いの先に見える人的交流の温度感のずれを感じる隔世感というか、決して、俺にとって健全な日々が、自己肯定できる、正しい日常にはならないのである。

だからといって、酔いつぶれたいわけではない。泥酔の状態で感じるものに全てを託していくほど、俺はロマンチストではない。現実感はしっかりもっている。しかし、日常の日々がどんな色彩であれ、本能の疼きを共有できる何かが、酒宴の場にはあって(これは、飲酒するかしないかを意味しているのではない。精神的対峙の場としての場を意味する。)、それに対して、真剣に臨んだ場合、俺の体内時計は壊れ、気がつけば、生理的な休息を欲する瞬間まで、揺られていることが、実に普通の状態であり、その時間の積み重ねが、俺の感受性に彩を与えてくれてきたと思っている。

精神的な対峙の飲み会、そして、それが、賢き社交の場に変わる瞬間、それを今の俺は味わっているのかもしれない。これが正しき大人の交流なのであろう。みんな楽しそうだった。何一つ不愉快な会話もなく、何一つ疎外感もなく、何一つ失敗もない時間であった。行事として、申し分ない機会である。参加できたことを嬉しく思う。

満足なのだ。満足で満足で楽しくて楽しくて・・・・ 、それでいて、今の俺のいる場所が、どうもすわりが悪いという自己矛盾があるのだ。得体の知れない浮遊感を感じる。

俺は何を欲しているのか? 翌朝に頭痛と自己嫌悪に包まれた日々をもう1度欲しているのか?そうではない。酸っぱい日々には決別したい気持ちの方が強い。ならば、今のこの浮遊感はなんだろう?

早く帰ってきて、万全の体調で翌朝を迎え、何事もないように日々を過ごす。起伏は疲労を呼び込むので、なるべくならば、活力を浪費しないように日々を調整する。これが、年輪を経た対応であり、大人になるということであろう。

30代後半になって、大人になるかならないかという自問をすること自体が滑稽で、甘えであろう。俺はとっくの昔に、樹齢として立派な大人の年輪を数えている。何を煮え切らない態度で、自己憐憫しているのだ・・・。全くもって、いじくらしい・・・。

俺は大人だ。しかし、感情のメーターが愚鈍になりつつある今の穏かさを満喫できるほどの円熟はない。円熟にさしかかるまでの間に、俺の感情のメーターは、どのような軌跡を描くのだろう。直視したい気持ちと、部品を変えたい、作為的な気持ちで一杯だ。

当面は、日々、書き連ねたいことがあることを是とし、そこに悪あがきを見出そう。

歳を重ねることは、こんなにも穏かで、起伏のないものであるのか?平穏すぎて吐き気がするが、吐くまでには至らない。これからは、何を歌っていこうかな?

「錆びだらけの望み」、今日も曲が生まれた。俺は抜け殻を抱いていく。

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