2008年6月2日月曜日

がん告知の問題

友人のおやじさんが、がんで余命あとわずかという悲しい報があった。気持ちの整理がつかない友人は俺に電話してきたのだが、何も言えない。
そのおやじさんとは、1度会ったことがある。団塊の世代の勤勉さを鎧のようにまとった、お手本のような方だった。

家族は最初、がんの事を本人に隠す方法を模索したらしい。しかし、自分の体調に異変を感じて、抗がん剤を投与する日に医者に懇願し、本当の病状を話してもらったらしい。
薄々感じてはいたのだろうが、その時の心境たるや・・・。

今までの人生をじっくり振り返り、整理をしたいとの本人の意向で、退院し、家庭で晩年を過ごされるようにご決断されたらしい。友人は長男であり、おやじに最期の恩返しをするために、これからの数ヶ月、気持ちを奮い立たせて過ごすことになる。

俺は22歳の時に、おやじをがんで亡くした。がん発見から2ヶ月で帰らぬ人となった。がんが見つかったことを家族が知らされた時、わが家は本人には教えないことを考えた。

生前はおやじのことを、とにかく面白みのない堅物だと思っていた。時には軽蔑に近い情も抱いていたことがある。

そんなおやじは、医者、先生といった昔の聖職に対する敬意を人並みはずれて持っていた。
また、ノンキャリ公務員であったおやじは、キャリアに対する深い憧憬と尊敬の念も持っていた。年上であろうが年下であろうが、肩書きというものに対しての従順性を持ち続け、職務や権力に忠実であろうとし続けた。団塊の世代のステロタイプであった。

おやじのこの性質が幸いしたのだろう。おやじは、高熱が何日も下がらない状況、毎日くり返される検査があっても、医者がうまく病状と発熱の原因をぼかして言ってくれたことを本気で信じていた。

おやじは、日記を30年以上欠かさない人だった。入院が決まった日からもそれは続き、高熱でうなされながらも、その日にあったことを事細かに書き続けた。右下がりのくせのある字で、決して殴り書きはしない。記録魔とでも言うほどの正確さで日々を記した。

おやじの死後、おやじの気持ちを尊重して、それら膨大な日記は処分した。ただ、闘病中の日記だけが、たまたま手元に残った。この前帰省した時に、たまたま見つけてしまい、深夜に読んだ。

入院するに至った経緯、仕事に初めて穴を開けてしまったことへの苦悩と、それを消化するまでの気持ちの変遷、見舞いに来られる方への感謝、家族への思いが、ひたすら綴られていた。

おやじは、へぼ俳句をかじっていた。毎回の日記の中で歌を詠んでいた。とにかく下手だった。ユーモアをこめたつもりの歌もあったのだが、センスを全く感じさせない俳句であり、川柳にも成り下がれない堅物さがそこにはあった。

病状が、悪化してペンを握る握力もなくなってきたのだろう。亡くなる前の一週間は字体がゆがみ、読み取ることが不可能なほどになっていた。心が引き裂かれるような字体であって、おやじが吐き出そうとする心境を解読して読むことも辛かった。そこで日記を閉じた。もう二度と見ることはないと思う。

この日記を見た時、家族がおやじに病状を隠し続けたことは成功していたことがわかった。
おやじは、全く自分の余命が少ないことを認識していなかった。

「今まで働き続けてきたけれど、これからは健康に留意して長く生きたい。今はそのための修理期間と考えると入院も悪くない。」と書いていたくだりに心が痛んだ。

うちのおやじに病状を隠し続けたことは良かったような気がしていたが、友人のおやじさんの報を聞いて、死後15年以上たって、あれでよかったのか?と自問自答した。

がん告知をするべきか、しないべきか、この問いに答えはない。相手のことを考えて周囲が決断することだが、それまでの人生を総括して、整理する時間を本人に与えてあげることが、本当は一番適切な対応だったのではないかとも思うようになった。

もちろん、友人のおやじさんのように、強い方ばかりではない。知らぬが仏じゃないが、何も知らないまま死んでいくのが幸せな事例もあるだろうとは思う。
周囲も精一杯苦悩した上での結果だから、どれが正解というのはないものだとは思うが、うちのおやじは人生を最期に整理したかったのだろうか?と昨夜は胸が痛んで寝られなかった。

友人のおやじさんの晩年が、暖かい風に包まれたスローモーションで過ぎ、家族の気持ちがいつも強くあり続けることが出来ますように! 見えない神に俺は祈る。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ご無沙汰しています。
祖母が亡くなってもうすぐ一年です。私たち家族も、彼女にがんの告知をしませんでした。彼女は自分の病状を薄々以上は感じていたようですが。
亡くなった当初は、自分たちの決断は(告知だけに限らず)本当に正しかったのか?を自分の中で問い直してばかりいた気がします。今でも、その問に対する答えはでないのですが。
大切な人の最期のとき、どう過ごしてもらうのか、どう関わっていくのか、これが正解、ってないですよね。本人の意思を尊重したいと思えば告知は必要な気がする。しかし告知することで気もちから弱ってしまう人もいる‥
結局、大切な人のことを心から考えて決める、行動する、それしかないのかなぁ、という気がしています。
長文、すいません。

管理猿まえけん さんのコメント...

>あられちゃん
素敵なコメントありがとう。相手のことを考えているのはもちろんだけど、それが1人よがりになっていないかってことが、いつまでも残る問いだわね。

どれが正解かってないから、なおさら苦悩は続くのです。つらいよな~。

腹八分目ダイエット、順調にして関取ゲットしてに! シャリに注意(笑)