2008年12月14日日曜日

麻雀後記

麻雀を昨日19時頃からしていて、今帰宅した。半チャン8回で、諭吉君2人分勝った。

昔の博徒ばりばりの俺と違い、今はおとなしいレートで博打っているのだが、今日はほんまついていた。トップ6回、2着1回、どべ1回の戦績は、俺の牌人生でも初めてではなかろうか? 

昔の俺は、ポン、カン命で、ドラ頼みの麻雀だったが、今日はちょっと違っていた。ドラには恵まれないながらも、めんたんぴん3色を数回上がり、リーチ後のツモも1発が多かった。

何よりの成長は、自分に運気がない時に、辛抱しておりることができるようになったことだ。

以前の俺は、相手が倍マンはってようが、自分の1役の手のテンパイに命をかけたものだ。タコ×10の阿呆麻雀であったが、最近は人並みの手作りが出来るようになってきた。

だいぶ成長したということだろう。勢い一発、絶対おりない強気麻雀をしていた時代もあったが、実に今は上手い麻雀をしている。

だが、一抹の寂しさもある。後先考えずに、常に特攻隊していた日々を、俺自身が抜けたような気がして、それは実に健全で、年相応なことなのだが、自分のアイデンティティーの座標が少し変わってきた気もして複雑だ。

これを複雑と思うこと自体が、まだまだ俺はどこかずれているのかもしれないが、社会通念とずれている自分を肯定はしないが、それだからこそ味わえる魂の強烈な振れ幅があったような気がする。

なんだか、すっかり大人になってしまった気がして、麻雀を通して凹む俺がいた。

年齢的には、どこを切り取っても大人なのだが、保守的な精神が、日々の思考、嗜好、志向、施行、全てを支配するような大人にはなりたくないと常日頃思っている。

だからといって、何でもかんでも無計画に無恥義理するつもりはないが、恥を知った上で、義理を果たした上で、感情のメーターがしっかり振れていなければ、生きているような気がしない。それが衰えることは、自分の人生での敗戦処理過程になるような気がしている。

社会的通年の落ち着きの象徴として、今日の俺の麻雀の打ちかたがあるならば、とてもじゃないが自己肯定はしたくない。

麻雀を比喩材料にして、何を大げさに述べているのだろうか・・・。

なんかね~、色んな意味で成長しているとは思うのだ。だが、その成長が、自分の潜在的なプラス面を削っての成長だったら悲しいな~と思うのだ。

プラス面はマイナス面を内包しているものだ。だが、マイナスを改善したら、プラスの馬力自体が減るのでは、だめじゃないか!という警報が常に頭の中で鳴っている気がする。

0 件のコメント: