2008年12月21日日曜日

i Pod

未だに持っていない「i Pod」であるが、2001年には市場に出回っていたようだ。2004年くらいから、身近にも見かける機会が増えだしたと思ったら、今じゃかなりの割合で持っている。

特に中・高生がイヤホンを耳に挿して聴いている場合は、ほぼ100%の割合で「i Pod」だ。

俺は機械に対して弱いが偏見があるわけではない。文明の利器に対する敬意を持っている。
だが、「i Pod」は小さすぎる。IDカード並みの大きさ、薄さの中に、すごい数の音源が入っていること自体が、声が電波を飛ぶこと以上に奇怪に思える。

新しいものには警戒心から入るのが俺の性質だ。パソコン、携帯電話も、手に入れて使い出したのは、ほぼ市場への浸透がなされた後だ。それまでは、じっと警戒心を緩めずに、半分天邪鬼に否定しながら様子を見守っていた。

そして、手に入れた瞬間に、一気に肯定派になる。そして、すぐ飽きる。まったくもって節操がない。

「i Pod」に対する警戒心と不信感の源は、このブツが普及する前に発売されたMDの存在だ。

2001年に東京にスクーリングに行った時、俺はCDウオークマンを持ち歩いていた。電車の中でCDごと取り替えていたら、ちょべりぐなギャルが、田舎の牛を見るような目で俺に奇異な視線を投げかけてきた。そのときに、俺は音響機器の時代が変化していることを初めて知った。テープのウオークマンでないだけ、俺の中では最先端な気分だったのだが、俺は田舎の牛だった。「も~ついていけない。」

翌年のスクーリングに行く前に、嫁をだましてMDデッキとMDウオークマンを手に入れた。そしてそれを強制的に借用し、俺は東京に持って行った。2002年といえば、「i Pod」が広くは普及しておらず、MDウオークマンは、いけてるブツだった。手のひらサイズのずた袋に入れて、MDを取替えしながら、俺は最先端音響機器を使いこなす人間としての矜持を保った。

「も~田舎の牛ではない。ハイテククローン並みの牛だ! も~泣かない!」と俺は得意気にMDを使いこなした。調子に乗って落として、帰宅後嫁に罵声を浴びせられた。「も~貸さない。」 

このように、MDウオークマンを使いこなす自分を誇っていた時期があったのだが、時代はすぐに終焉を向かえた。「i Pod」なるブツだ。

俺は最初このブツを見たときに、万歩計か、簡易血圧計か、携帯ラジオか?と思った。
学生が携帯ラジオを持ち歩いていると思った俺は、「若いの~。時代はMDやで!」と上から目線で見ていたのだが、すぐに時代が俺に教えてくれた。

つまりだ、MDの全盛時代が短すぎる! 「i Pod」なるブツを普及させるなら、最初からMDウオークマンなんかを間に挟むな!と言いたいわけだ。

DVDが普及する前にあったLDという奴のような仕打ちを、わがMDウオークマンが受けたと思うと、不憫で不憫でならない。こういう理由で、未だに「i Pod」を肯定しきれない。

もし今俺が都会に住んで、電車通勤をしていたら、真っ先に買いたくなるのかもしれないが、田舎の暮らしは車社会なので、カーステで音楽環境は充実している。だから、都会の電車通勤の人と違って、別に耳にイヤホンを突っ込まなくても音楽が聴ける。だから、なおさら、「i Pod」を購入したいという欲求にもかられない。

「i Pod」全盛だからこそ余計に、旧式のウオークマンにこだわりを持ち、愛用し続ける人がいたらかっこいい。

身だしなみばっちりのイケメンビジネスマン、もしくは、キャリアウーマンばりばりのナオンがいたとする。流行の服装に、カバン、時計、装飾品は嫌味のないブランドで、趣味のよい香水をつけて、周囲から一目おかれるような人が電車に乗っているとする。

そんな彼・彼女が、満員電車の中でカバンから、でっかいウオークマンを取り出し、カセットテープ、もしくはCDを取り替えるのだ。

これは粋だ。片耳だけの携帯ラジオを取り出すのも良い。かっこいい人が使えば、虐げられた過去のウオークマンも息吹を吹き返すだろう。周囲の価値観も変わるのだ。

「i Pod」全盛時代だが、もうちょい、過去の利器に敬意ある社会があってもよいと思う。レトロ賛美ではなく、新旧両機が、好みに応じて合い並ぶ時代が素敵だと思う

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