2008年12月19日金曜日

受験システムの肯定と否定

大学、高校受験ともに、受験シーズン真っ只中である。大学入試においては、推薦入試組は早くも進路が決まっている。一般受験組みは追い込み本番である。
業界で働く身としては、今までのサポートが適切であったかが、臨床的に返ってくる時期であり、身が引き締まる。

英・国(一部数学も)を指導する立場としては、最近、言語を感覚として深く捉えられていない子が多いことが気になる。言語変換機能において、かなり劣化している気がする。特に高校受験を控えた中学生に多い。

偏差値的に見て上位高校に行く子であってもだ。思考が直線的というか、一問一答的というか、機械的な答案がよく見られる。

自己の体験に限っての話だが、進学校と言われる偏差値の高い高校に進学した生徒で、高校以降の学力の伸びが高い子と、むしろ劣化する子の見分けは、進学前の段階で、かなりの自信を持って見分けられるようになっている。

高校受験までなら何とかなるが、有名大学受験においては、やはり基本は思考力である。いや、実際はそうではない部分もあるが、本来はそうあるべきだと思う。

思考力を媒介する言語に対する感覚的な理解が備わっていない子が、進学校に入ると悲劇的な結果をむかえることがある。

主観があまり入ってもいけないので、無理強いはしないが、思考力が養成されていないのに、進学校を希望する子には、むしろ、偏差値の低い高校に行くことを薦め、点数的に足りている分、学習の長期目標を、目先の高校受験にではなく、先に見据えるように指導している。

詰め込み学習を否定しているのではない。ただ現時点で、思考するための道具としての詰め込みを出来る子と、出来ない子がいるのが現状だ。そこに頭の良し悪しがあるとは思うのだが、単に十代の数年間で頭の良し悪しを測れるわけではない。その子の今後に向けて、その子に適した養成プランがあってしかるべきだと思うだけだ。目先の名誉的な進学にこだわってはならないと思う。

思考力が備わっているかを見分ける尺度はたくさんあり、それらは複合的であるが、一部分だけを取り出して、わかりやすい例で言う。

英作文において町を紹介する場面で、「自然が豊かである。」といった表現が必要になった時があるとする。 (natureとrichは、信じられない話だが、一部教科書では未習単語であり、ご丁寧に県立高校受験においては、注釈がつくご時勢だ。)

これを、”The nature is rich.” と 表現する子が、上位校進学者に多いのだ。確かに、未習単語2語を知識として持っている分には秀でているのだが、言語をその主旨に沿って読みとって伝えようとする思考の果てが、”The nature is rich.” なわけがない。つまり何もわかっていない。一問一答式なのである。

“There are a lot of mountains in my town. “といったような表現を出来る子は、その時点での語彙数が少なかったり、粗い解答が目立っていたりしたとしても、その後伸びる。

「自然=nature」、「豊か=rich」としか変換できない子と、「自然が豊かである。」という意味合いを、「山がたくさんある」と、知っている語句で表現できる子の差は大きい。
単語をそのまま変換するだけならば、翻訳ソフトを使えばよい。英語であれ何語であれ、言葉は、使われる場面で、いかに正確にその場に応じた状況、個人の思考を伝えられるかが、真っ先に問われるべき資質であると思う。

だが、残念ながら、単語同士の変換しか出来ない子でも、知識量が一時的に秀でていれば受験はクリアしてしまう。本来の学力というものが、どうして求められていて、どのようにそれをテストで試すのかの本質を考えた時、受験システムの虚しさを感じずにはおれない。

「なぜ勉強しなければならないか。」という問いは、子供がほとんど抱く、恐らく初めての哲学的な問いである。

その答えを色んな尺度で大人は用意する。「良い大学に入って豊かな生活をするためよ。」といった安っぽい答えもあれば、「あらゆる可能性が子供にはあるのだから、選択肢を広げるためだよ。」といった、少し気の利いた答えもある。

俺は、勉強の本質は、「人生における種々の問題解決能力を養うためだ。」と思っている。ただ、この意味は子供にはわからないから、「何でかわからんかったら、勉強してわかるようになって、あんたがあんたの基準で受験システムを変えられる身分になれるようになって。」と言うようにしている。そしてその後に、「そうなったら、俺を雇って!」というようにしている。(後者は完全なる俺の媚だ。これは人生問題解決能力に秀でた俺ならではの、保険である。人格的な臆病さと強かさは、ここではふれない。)

そして、そのため、「今は何も言わんと、ひたすら苦しめ! 」と鉄拳をあびせながら、詰め込みと言語変換能力養成をバランスよく散りばめて指導している。

受験システム自体はくだらないと思っている。だが、子供たちにとって、問題解決能力を養うには絶好の機会だとも思う。受験科目の勉強以外、別に機会がある方はそっちを利用すればよいと思う。

受験システムを否定すればするほど、肯定部分も出てくる、矛盾だらけである。
そしてそれは世の中の縮図でもある。子供たちに世の中の矛盾を仮想体験させるためには良い機会だと思う。十分な思考を持って、変な関門を渡って欲しい。

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