2008年12月31日水曜日

親戚関係について思う

今、「ほうるもん」の音源録音を終えて帰宅した。8曲を一応録って明日CD盤面で受け取ることになっている。課題も多いが、まずはじっくり明日以降に聴いてみたい。
ライブと録音が年末にあり、慌しい日々であったが、実に充実して楽しい年の瀬を過ごせている。幸せだ。来年もよい年になりそうな気がする。

話題は変わる。

一昨日の帰省時に、お祖母ちゃんから「電話よこせ。」の指令があった。おかんに伝言しての指令だったのだが、何だか不穏な感じがして、すぐに電話した。

平成8年に、嫁の家の養子となって以来、旧姓の実の親戚との付き合いは、希薄になっていた。実の親戚を悪く言うつもりはないのだが、すごく高圧的な雰囲気を、俺は幼少の頃から感じていた。

亡くなった実父は昔の建設省職員だった。ノンキャリアとしてたどり着けるポストの最上位にたどり着き、自分より年下のキャリア組(数年で霞ヶ関に栄転する官僚様)に日々仕える晩年を過ごしていた。

実父の弟は、1人が自衛隊で武器関係のそこそこのポストで退職し、現在天下り先で働いているらしい。もう1人は、警察として実父と同じくノンキャリながら、警視にまで上り詰め、主要な役職を歴任した人だ。マル暴関係のトップだったこともあり、家にSPが詰めていたこともあったらしい。

実父を含め兄弟3人が、それぞれノンキャリながら、立派に職務を果たし、その世界でたどり着ける最高位にまで上り詰めた勤勉で努力家な家系だ。3人を産んだおばあちゃんも彼ら3人を誇りに思っていて、一家の結束は高かった。

俺自信も、親父たちの公務員としての職歴を誇りに思うこともある。実際立派だと思う。
ポストの階段を登ることに全力を尽くして、それを日々のエネルギーに変えてきた人たち。
国家に対しての忠誠心は、ジャック・バウワー並みだと思う。

だが、職業病というか、ポストと格に支配され続けてきた彼らの価値観とは、俺は根本的に相容れないものをもって育ってきた。すごく窮屈なのだ。

おばあちゃんがゴッド・マザーとして頂点に君臨し、その下に3人の猛者がいる。そしてそれぞれの妻が、ゴッド・マザーに気に入ってもらえるように、そして家系内での立場を強くするために、ぎらぎらビームを出しまくっている様子が、幼少ながらにも感じられた。つまり、妻たちもまた、夫と同じく官僚的というか、おばあちゃん国家の中での公務員だったのである。おばあちゃん教団の信者と言ってもよいかもしれない。

おばあちゃん崇拝の信者である妻達の勢力争いで、俺のおかんは早くから脱落していた。いや、不必要な帰依をやめていた。物質的なもの、1年に詣でた回数なんかで信者としての優秀度を測る状況に価値観を見出せなかったのだろう。他にも色んな要因があるが、心にもないおべんちゃらを排して、1対1の人間対峙を教祖としようとしたものだから、他の2人は、おかんポストの襲撃を始めた。長男の嫁として、教団内でのポストが高かったおかんであったが、あっさりと、かぶとを脱いだ。

実父が生きていた時は、それなりに偽善的な敬意をおかんに表していた2人の妻であったが、実の父が死んでからは、「人間こうも変わるものか?」というくらい、いびつにおかん攻撃を始めだした。積年の何かがあったのだろう。

おかんのほうは、攻撃されても、「まあいいやろ。」と何も気にしていないようだ。親愛の情を持った今まで通りの行動をしているのだが、それが逆に彼女たちの逆鱗に触れるのだろう。攻撃者心理としては、相手が今まで通りの対応をされるとばつが悪いものだ。

攻撃は、俺の兄弟にまで及びだした。おかんの子育ての仕方が原因で、俺たち兄弟の親戚付き合いは義理を欠いた無礼なものであるという構図に持っていきたいのだろう。
だが兄貴も弟も「いいんちゃう。」だ。

今までは、俺には攻撃が緩かった。なぜなら彼女たちの教祖であるおばあちゃんの中で、俺は全孫中、かなり思い入れが強い存在なのだ。1歳の時に預けられていたこともあり、おばあちゃんにしても孫としての情が1番入りやすかったのだろう。そして俺自身もおばあちゃん子だったので、おばあちゃんが好きだ。おばあちゃんの健康を願っている。

冒頭のおばあちゃんからの指令があって、俺は親戚の家で同居しているおばあちゃんに電話した。親戚のおばさんが出た。

「あのね、友達に電話する時間はあるんやろ? なら、たまにはこちらにも電話したらどう? 家にも全然来ないし、あなたの家のもんはみんな、ごぶさたばかりで、おばあちゃんに失礼とちがう?」と、俺に嫌味を言ってくる。ついに本丸の俺にもきたか! だが俺の対応は大人だ。さりげなく毒を吐いたが・・・。

「おばちゃん、すみません。ごぶさたばかりですね。年金生活者なったら詣でられると思うのですが・・・・、 ところでおばあちゃんに変わってもらえます。」と、取次ぎを頼んだ。

出てきたおばあちゃんの嬉しそうなこと! 近況を色々と話してくれる。俺も楽しくてついつい長話。電話指令は、単なる俺への電話おねだりだったみたいだ。

俺はごぶさたを詫びた。だが、おばあちゃんは、「もう少し連絡もしてほしいけど、それだけ忙しいってことは大事なことだ。あんたの歳で暇やったら逆に心配やからそれでいい。」と実によい理解を示してくれる。

親戚に対して、俺は年賀状を欠かしたことがない。それに居住地域近辺で自然災害のニュースを聞いた後には、安否を電話でうかがっている。それだけでいいと思っている。

おばあちゃん信者の2人のおばさんに対しても、決して憎む気にはならない。彼女たちなりに、一生懸命おばあちゃんの息子の良き伴侶であろうとしてきたのだろう。実父死後の、おかんへの対応は、少し幼稚だなと思うこともあるが、価値観、尺度が色々あるので、裁く気にもならない。

ただ、わが親戚たち、団塊の世代の人たちの勤勉さと価値観が、時には偏屈で表面的に思えて残念なことがある。久しぶりに会っても、「元気?」という言葉よりも、「今どんな仕事しているか?」 「どんな学校に入ったか。」 「 今の肩書きはどうか。」ということが、優先して親戚内で会話されてきた。

わが家系では、学歴、職歴なんかは、全ておばあちゃんに報告するための、耳心地の良いものが求められてきていた。いや、正確に言うならば、おばあちゃん自身が求めていたのではなく、彼女の信者が自らの地位を高める努力の一環として、俗世の栄達を報告事項として求めていたのである。

こんな狭くて息苦しい価値観の中で、しっかりと日々を送ってきた親戚を肯定する。だが、世代には世代の、俺には俺の価値観がある。人間として義理を欠いたものでない限り、お互いにその価値観を裁くことは出来ない。

何回手紙を出した、何回電話をした、そういった表層的なことにとらわれない関係が、本来の親戚関係であると思っている。むしろ、表層的な関係は、職場などでの義理付き合いで求められるものであり、親戚関係にそれが入ることには、むしろ興ざめする。

いつか、本当の1対1の人間として親戚と話せる日が来たらとも思うが、来なければ来ないでいい。俗世の義理がけだけで処していくだけでいいと思う。付き合う人間は自分で決める。それは血縁的な結びつきが少しあるからといって、特に優先すべきものでもないと思っている。

親戚関係について少し考えた年末だった。今の養子先での親戚付き合いは、俺にとって心地よい。自然な感情発露として、等身大でこちらの親戚とも付き合いたいと思っている。

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